星野源さん「うちで踊ろう」アートで心がつながるという事。

星野源さんの「うちで踊ろう」を、星野さんが、
出演する「お源さんといっしょ」という、テレビ番組で、
紹介していました。

「うちで踊ろう」は、星野さんが作った歌と演奏に、
ネット上でコラボできるという企画で、
楽器演奏や、歌で共演という、音楽の共演以外に、
絵を描いたり、ダンスを踊っても良いし、
個々の好きなアートで、共演すればよいという主旨だそうです。

星野さんは、番組で、料理を作ることで共演した例を、
紹介して、「僕、これは好きです」
というような事を、言われていました。

手前勝手な、私的思い込みかもしれませんが、
昨日書いたブログの、
武満徹氏の「すべての人が、芸術家であるべきだ」
という主旨と同じような、人に対する愛を、
星野氏の「うちで踊ろう」の企画には、感じました。

私は、芸術というと、恐れ多く感じて、
芸術を、アートと置き換えて、
「すべての人が、アートすることで、人と人の心がつながり、
豊かな心を育てられることが理想」
と思っています。

そういう意味では、月謝を払って、
絵や、ピアノや、ダンスを習おうが、
自分で、好きに楽しんで、月謝を払って、
習う気がなかろうが、アートの理想と、
教育産業のビジネスの問題は、違う問題なので、
どちらでも良いと思います。

楽譜も読めないし、楽器はなにも弾けない幼児が、
道端で、ちょうちょうが、飛んでいるのを見て、
心のなかで、唄を歌ったり、ちょうちょうの真似をして、
ひらひらと、手をふって、心のなかで踊ったり、
ちょうちょうの絵を描くのも、アートだと思うのです。

アートは、本来、ビジネスとは関係ない、
人間の生命の本能的な欲求から、生まれたもので、
分かりやすい例では、言語があると思います。

言語は、高度な知識や、専門的な技術を高めたいという
欲求から、生まれたものではなく、
人と人が、心を交わしたいという、本能的な欲求から、
生まれたもので、母語の習得は、ビジネスとは、
関係がない、無償の乳幼児期の子育て、
無償の子供への愛が、母語の土台です。

そういう意味では、私は、音楽は、第2の母語で、
本来は、無償の人間愛を、土台にするべきもので、
専門的な知識のあるなしや、年齢には関係なく、
誰の心の中にも、音楽はあると思います。

何回か、ブログで書いているけど、文章で飯が
食える作家だとて、乳幼児の頃の、親や大人達との、
母語による無償の心の交流という、土台がなければ、
作家には、なれないわけです。

文芸作品ばかり読んで、1円のお金も介在しない、
気楽な日常会話がなければ、作家には、なれないです。

確かに、月謝を払って、より高度な専門的な知識や、
技術を、習得することは、お金を得る仕事にするなら、
必要な事だし、お金とは関係ない、趣味でも良い事だけど、
「お金が介在する場だけが、アート」
という狭い概念に、しばられてしまうのは、
アートすることの本質と、はずれてしまうと思うのです。

音楽の誕生も、原始の文明が発達していない時代には、
「音楽で踊りたい」とか、「音楽で歌いたい」という、
人間の本能の欲求から、音楽は誕生しました。
この欲求は、「音楽で、人と人の心がつながりたい」
という、言語と同じ、人間の本能的な欲求です。

コロナで、人と、リアルに会って、人と心が
つながれない閉塞感から、星野氏は、
「うちで踊ろう」のコラボで、人と人の心が、
アートで、つながるネットの場を、
企画したのだと思います。

最初の音楽の誕生の時には、楽器もなかったし、
楽譜も発明されていないし、人と人が音楽する場で、
一緒に歌ったり、踊ったりするのは、知識も技術も不要で、
ある意味、音楽でお金を稼ぐビジネスとは、
無縁のものでした。

しかし、楽器が発明されると、楽器商というビジネスが、
生まれ、人気者の音楽家が出ると、芸能事務所という、
ビジネスが生まれ、楽譜が発明されると楽譜出版社という、
ビジネスが生まれ、CDが発明されると、レコード会社が
生まれ、音大や音楽スクールもできてきました。

そして、ビジネスのための音楽という視点が、アートである
音楽の本質を、見えにくくさせる弊害も、生まれてきました。

専門的な技術や、知識を持った層が、持たない層を見下ろして、
人を差別したり、人を分断する弊害も、生まれました。

ネットで見た話ですが、
「クラスの##ちゃんは、メロディオンが、
弾けないんだよ。だから、学校の音楽が嫌いなんだって」
と、ピアノ講師に言ったそうです。

ピアノ講師は、
「##ちゃんは、弾けなくて、かわいそうだね。
あなたは、ピアノを習っていて良かったね」
と言ったそうです。

私は、こういうピアノ講師の発言は、大嫌いです。

音楽は、楽器ができるとか、できないとか、
楽譜が読めるとか、読めないとかで、
人を差別するものではないし、
専門的な技術や、知識のあるなしは、関係なく、
人と人が、アートを介して、深い心の
交流をして、人生を楽しんで、心の元気を、
育てるためにあるものだと思うのです。

このアートの本質を無視して、ただ単に、知識や、
技術を習得する報酬として、講師は、月謝という、
お金を受け取るというビジネス的視点ばかりに、
からめとられているのは、空しい事だと思うのです。

また、学校は、学問の習得のためだけに、
あるのではなくて、多様な生徒間の個別性を認めて、
一人一人の得意な所も、不得意な所も認めて、
「上も下もない、仲間だ」という意識で、
人と人が、協力しあうことを、教える場でもあると、
私は思うのです。

「##ちゃんは、できなくて、かわいそうだね」
と教育する立場の大人が、子供に言ってしまう事は、
悲しい事だと思うのです。

私が、講師なら、
「あのねえ、できる、できないは、誰にでもあって、
社会に必要な事なんだよ。もし、みんながピアノが弾けて、
ピアノの先生ばかりになったら、社会は困るでしょう。
いろいろな仕事に向く、できる・できないの個性が、
社会では必要なのよ。できる、できないより、
ピアノで、音楽を楽しんで、自分の良い所や、
お友達の良い所を、見つけたり、育てていく事が大切なのよ。
人は一人一人違うという事は、社会にとって、とても、
大切な事なのよ」と言います。

確かに、コンクールに入賞するような生徒を出すと、
その教室は、専門的なレベルの高い生徒が集まり、
月謝も上げられて、ビジネス的には、都合が良いです。

しかし、よくありがちな事ですが、
コンクールに出られる子だけを優遇し、
出られない子を切り捨てる講師のビジネスしか考えない視点は、
「すべての人が、心の元気を育てるために、アートを楽しむ。
人と人が、アートで心がつながり、社会の仲間どうしになる」
という理想とは、はずれているので、私は空しいものを、
感じるのです。

現実は厳しく、私の理想論かもしれませんが、
すべての人は、この世で、ただ一人しかいない、
かけがえのない存在で、その人固有の
この世で一つしかない心があると思います。

神奈川時代に、この問題で、「ならないピアノ」
という、ピアノ即興演奏と、朗読のコラボを、
やってみた事があります。

次回のブログで、「ならないピアノ」のシナリオを、
書いてみたいと思います。

あさげピアノハウス

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