高橋悠治氏「音楽家は、音楽家にとって敵なのよ」

日本を代表する作曲家・演奏家の高橋悠治氏の
「高橋悠治対談選」を、読んでいますが、
1997年の対談の中の高橋氏の発言で、
「音楽家は、音楽家にとって敵なのよ」は、
私が、今まで、綺麗事に逃げていた
現実のシビアな問題を、突きつけられたような気がしました。

この発言は、多様なジャンルの作曲で活躍し、
桐朋音大の学長を務めた三善晃氏との対談の言葉です。

対談の流れを、大雑把に書いてみると、三善氏は、
桐朋音大で、ピアノと作曲を教えているそうですが、
三善氏の師匠の池内友次郎氏は、
「作曲は、教えられるものではないんだ」と、
よく言っているそうです。

高橋氏と三善氏の対談は、難しい用語が多く、
私には、完全に理解できない部分もありますが、
私的な解釈ですが、結局、作曲の創作活動をするには、
人の作品を経験したら、それを、その人独自の
法則にして、音楽を体得していく。

それが、主体的な音楽の創作だと思います。

もし、その人独自の法則にしないで、
教えてもらった師匠の法則で、音楽を創作すると
したら、私の個人的な感じ方では、その人独自の
生を通した音楽が、製作できなくなる。
「自分がない音楽になる」ような、気がするのです。

一例ですが、巷の幅広く知られていて、大勢の人が、
勉強している音楽理論は、一般的な法則で、個はないです。

結局、この一般的な法則と、どのようにかかわり、個としての、
自分の音楽の法則を、つくっていくのか?が、難しい課題です。

昔、私は、スタンダードを、好き放題に編曲し、
無調のなんじゃらほい?の、仕上がりになりました。

不定期レッスンを、受けつけてくれるジャズピアニストに、
レッスンを申し込んで、この編曲を弾くと、
ピアニストの方は、
「僕には、これはアドリブできませんよ。
あなたにしか、できないから、人に教われる種類のもの
ではないです。あなた独特のハーモニー感です」
と言われました。

未熟な私は、「教えてもらえると思ったのに・・」
と、孤独で、淋しい気持ちになりました。

でも、現実は、「自分の音楽は、人に教われるものではない」
のですよね。

この段階になると、明解な法則は、見つからないし、
人に教えられるものでもないので、仮に、ネットに
公開するとしたら、
「一応、こんな風に編曲したけど、単なる編曲事例の一つで、
みなさんも、私とは違った、自分なりの編曲をやってね」
というスタンスしか、とりようがないです。

もう一例、昔、ジャズのレッスンで、
「ここの分数コードの編曲は、よくできてますね」
と、師匠にほめられました。

私は、
「規存の曲にも、理論書にもない、分数コードで、
なんとなく、こういうハーモニーが欲しいと思って、
でたらめにやったものです」
と言うと、師匠は、
「音楽は、理論書にはない事も、たくさんあるから、
最後は、その人個人の感性になりますね」と、
言われました。

これは、私だけの問題ではなくて、知人は、邦楽の琴の曲を、
ジャズに編曲しています。
現代音楽や、コンテンポラリージャズや、ロックや、
いろいろな音楽の要素を、邦楽にコラボした編曲で、
この編曲を、そのまま、私が、アドリブしようと思ってもできない。

あくまでも、知人の個の編曲なのですね。

結局、作曲や、音楽の創作活動は、ひりひりした孤独と
向き合う覚悟も、必要なのかもしれません。
(「しれません」と、書いているのは、
お気楽にやりたい私の、逃げ腰の気持ちが出ていますね)

「個々の人が、主体的に音楽する」という事は、
個と個のぶつかり合いや、場合によって、相手に、
立ち直れないほどの、致命傷を与えるのですね。

これは、何か新しい事に挑戦したいという、
リハーサルバンド(お金を払って、今までやった事のない、
珍しい音楽に挑戦する場)や、熾烈なジャムセッションの場で、
「この人、自殺するのではないか?」と思うくらい、
口もきけないほど、落ち込んでいる人に、遭遇した時に、
感じた事です。

「主人が稼いでくれるのだから、私は、別に音楽で、
食べていかなくても、家計の補助程度に、ピアノを教えて
いれば良い」という逃げ腰タイプの私は、
そういう場に遭遇すると、だいたい逃げています。

私が5年間苦労して、やっとできた事を、半年で、
できてしまう人が、うじゃうじゃいる現実の前では、
「どうせ、才能がないのだから、適当な所で、
やっておけば良い」と思ってしまいます。

しょうもない私の話題は、脇に置いて、
結局、人と真剣勝負で、音楽をやる場では、
「食うか、食われるか」の熾烈な闘いもありがちです。

三善氏は、高橋氏から、
「学生から、教えられるという感じがする事は、
ありますか?」と、質問されて、
「例えば、本を読んで、自分の思惟を、深めていく時、
それは、本が教えているのか。(略)
(のっぴきならない事態になった)勝負であれば、
両者がやいばを裸にして、切り結んでいる。
それが面白いね」
と語っています。

結局、私が思ったのは、学生に教える時に、
学生もやいばを裸にして、講師を切ってしまう事もある。
でも、学生に切られながら、同時に、学生と講師が、
切り結んでいるという、複雑な事態ですね。

これは、アメリカのジャズを教える大学のバークリーでも、
同様で、学生の鋭い質問や挑戦に、講師は、
かなりの緊張感で、授業をするそうです。

私は、音楽以外の業界は知らないけど、理系の研究分野でも、
師匠と弟子は、切ったり、切られたり、
切り結んだりしているのだと、思います。

コロナの研究でも、1週間前には、分からなかった
新しい研究成果が、どんどん出てくると、師匠の唱えた説を、
覆す弟子がいるのも、当り前なのですよね。

三善氏は、「両者が、やいばを裸にして切り結んでる」
のが、「面白い」と言っていますが、生徒や弟子に
切られる事を、恐れないで、面白がらないと、
人に教える事は、できないのですね。

シビアな話だけど、「食うか、食われるか」の
真剣勝負の場では、切られることを恐れる人は、
自滅するのですかね??

昔、ジャズ理論講座に参加して、私は、つい、
「この理論に、当てはまらない事例も、
ありますよね。そういう時は、どうするのですか?」
と、講師の方に、質問すると、
「君は、いろいろな所で、そういう類の質問をして、
ミュージックスクールを、荒らしているのかね」
と、嫌がられました。

私は、その講師をやいばで、切ってしまったのですかね?

まあでも、現実は、シビアで、こんなものだと思います。

私だって、生徒さんに、やいばで切られる。
でも、切られても、ただ、自分の力不足・限界を感じるだけで、
お気楽な私は、落ちこまないですが・・。

高橋氏は、
「いわゆる創造という、孤独な作業が、一方にあって、
他方では、個と個の出会う場では、「切り結ぶ」というでしょう。
音楽家は、音楽家にとって敵なんだね」
と言っています。

三善氏は、「そうね」と、この発言に同意して、
「孤独、すなわち、自己完結的な世界とは、言えないからね。
だから、相手を洞察する事は、孤独な行為だけど、
それが自分との対峙を可能にする。
別な言い方をすれば、想像する事が、自分に対する
一つの契機になって、孤独が保証されるという事です」
と、語っています。

私が思うに、創造するという事は、どこかで、自分を、
他人のように、冷静な目で、客観的に見ている視点、
他者の視点も、必要だと思うのです。

「自分だけの視点で、完結するものではない」
という事ですかね?

昔、私は、元バンドメンバーに、愚痴った事があります。
「口もきけないほど、落ち込んでいる人をみると、
音楽で、人を傷つけるのが怖くて、逃げたくなる。
私は、誰も傷つけない、私が一番下手で、誰も、
私の音楽には、興味も関心もない場が、安心できて天国だ」

元バンドメンバーは、
「音楽をやっていれば、傷ついたり、傷つけたり、
そんなのは、日常茶飯事で、いちいち気にしていたら、
音楽なんて、やっていけないよ」
と、言いました。

コロナでも、人類は、熾烈な研究の闘いを、
続けていると思います。
師匠も弟子も関係なく、誰かを傷つけたり、傷ついたり、
でも、前を向いて、孤独な闘いを続けるしかないのですよね。

「想像する事が、自分に対する一つの契機になって、
孤独が保証される」
という言葉は、難しくて、私には、よく分からないけど、
でも、孤独をまったく回避して、個と個とのぶつかり合いを、
避けていたら、自分の主体的な人生も、なくなるのですよね。

当り前だけど、弟子や、研究者どうしが、やいばで、
切りすてる事が、なくなったら、新しい研究が、
できなくなりますよね。

個と個のぶつかり合いや、やいばで切ったり、
切られたり、切り結んだりは、必要な事なのですよね。

現実には、メンバーどうしが、激しくぶつかり合い大喧嘩。
でも、「一緒に音楽やりたい」と、長年バンドをやり続けている事も、
よくある事で、バンドメンバーとは、口をきかず、雑談はなし。
でも、音楽をやると、アツクなるというのは、よくある事のようです。

あさげピアノハウス

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