幼児にとって、アートは自分の居場所。アートはお友達。

昔、家のピアノでは、ベットに寝転がって
弾けないので、小さなキーボードを買って、
ベットで弾いていた幼児の生徒さんが、
いました。

その子は、キーボードに、お人形さんと同じように、
名前をつけて、可愛がっていました。

昔、ピアノを弾く時に、アンパンマンの指人形で、
弾いた幼児もいました。その子は、
「ピアノさん、淋しそうだから、アンパンマンで、
弾いてあげるの」と、言っていました。

幼児にとって、ピアノは、お友達になっているのですね。

アートする事は、自分のありのままの、嘘偽りのない
気持ちでアートして、なんでも本音が言える親友の
ような感じで、アートしていけば、
アートする事が、その人の居場所になると思います。

そういう意味では、幼児が、ピアノでアートすると、
幼児にとって、ピアノは、お友達になるのですね。

お人形を、ベットの横に並べて、一緒に寝るのと
同じで、キーボードの##ちゃんというお友達と、
一緒に、ベットで、音楽で楽しいお話をしているのだと
思います。

アンパンマンの指人形で、ピアノを弾いた幼児は、
今現在の自分の淋しい気持ちを、お友達のピアノちゃんに、
分かってもらいたかったのだと思います。

こういう幼児の、ストレートな枠にはまらない気持ちに
遭遇すると、
「ベットで寝転んで、キーボードを弾くと、
悪い癖がついて、正しいピアノのフォームが
できないから止めましょう」とは、言えなかったです。

現実には、遊び弾きで、いろいろな気持ちを、
投影して、幼児は、どんどん曲を作ります。

言葉を覚えたての幼児は、ベットの中でも、
電車の中でも、しゃべりたい欲求を、抑えられない所があり、
これは、本能の欲求で、ピアノを弾く事も、本能の欲求に
なっているのだと思います。

アートする事も、人間の本能の欲求から生まれたもの
だと思います。

アランの「芸術論20講」という本には、
「外なる自然にも、内なる自然にも、信頼をおくのが、
芸術家だ。それは、幸せな事だ」と、
書かれています。

私は、幼児が、自然な人間の本能の欲求から、
アートしているのは、この言葉の状態だと、
勝手に、解釈しています。

昔の私は、今よりも、もっと未熟で、幼児の想定外の行動に、
とまどったけど、さりとて、
「ピアノは指で弾くものよ。アンパンマンで弾くのは止めなさい」
と注意するのは、何か違う感じがして、言えなかったです。

今の私なら、
「ピアノさん、淋しそうだったけど、アンパンマンに会って、
 嬉しそうだね。元気になったよ」
 と言って、元気で、はつらつとした曲を、ピアノで弾きます。

幼児は、アンパンマンの指人形を、
ピアノの上で、ぴょんぴょん、はねて、
躍らせるかもしれない。

「私も、元気になる唄作ったよ」と、歌い出すかも
 しれないし、元気な唄で、私と、連弾で、即興で、
 遊び弾きするかもしれない。

ピアノは弾かず、絵を描きだすかもしれないし、
踊り出すかもしれないです。

私は、「幼児は、ピアノを間違えないで、
弾ける事を求めているのではなくて、
ピアノで、アートを体験して、
アートが、自分の応援団。親友のような、
自分の居場所になる事を、求めているのだ」と、
気がついた時に、大友良英氏が、長年参加している
音遊びの会で、絵を描いたり、ダンスをして参加する、
幼児達のコラボを夢想すると、ワクワクしました。

どうしても、音楽家は、音楽だけを、幼児に
やらせてしまうけど、幼児のような、ストレートな、
本能の学びに、既成概念をとりはずして、素直になれば、
音楽と、絵やダンスとのコラボもありだと思いました。

フリージャズのライブでも、楽器を演奏するのを止めて、
踊り出したり、「バカ野郎!」と叫んだり、
本業はお坊さんのジャズメンが、お経を読経したり、
面白いアートを、いろいろ見ました。

幼児も、自然のなかで、たっぷり遊んで、
かまきりをつかまえて、家で飼う時に、でたらめな
「かまきりの唄」を歌って、踊ったりする。
これも、内なる自然と、外なる自然(外の自然に触れる)
に信頼をおくアートだと、私は思っているのです。

話は、少しはずれますが、私の教室は、経済上の都合で、
情けないけど、アップライトピアノ(現在は、ハイブリットピアノ)
です。たまに、グランドピアノのスタジオを借りて、
レッスンしますが、幼児の反応は、さまざまでした。

A ピアノの下に、もぐりこんで、
 「先生、隠れんぼしよう」と言った幼児。

B 狭いスタジオに、大きな黒いグランドピアノで、
 「こわい!」と、泣きだした幼児。

C「うわあ、でっかいピアノさん」
  と、喜んで、弾きまくった幼児。
  (ただ、幼児の手には、グランドピアノの鍵盤は、
   重くて、すぐに、手が疲れて、弾くのを止めて、
   休んでいました)

D 私が、高音域から低音域まで使った、派手な演奏をすると、
  その音の迫力に、目を見開いた幼児。

個々の幼児によって、反応はさまざまです。

想定外の幼児の反応に、とまどう事も多いですが、
Aの場合は、「出てきなさいよ」と、言っても、
親御さんが叱っても、「嫌だ」と、なかなか出てこない子も
いるので、仕方なく、親御さんと、雑談して、
しばらく、無視をすると、淋しくなって出てきます。

ただ、万が一の地震の時は危険なので、注意しないと、
マズイです。

Aの本で読んだ事例ですが、音大で教えている
ピアノ講師の人は、幼児に、ピアノを教えるのも、
大好きで、1ケ月くらい、ピアノの下にもぐって、
出てこない幼児と、対話して、遊んであげたそうです。

講師さんは、こういう状態を、心から楽しんでいたようで、
虐待児のシーラという子や、心に傷を持つ子供達を教えていた、
世界的に有名なトリイ・ヘイデンさんも、
このような状態を、心から、楽しんでいたそうです。

根っから、子供が好きな教師で、自然に幼児の心に、
同化する才能があるのですね。

私は、そこまでは、いかないです。まだ、どこかで、
大人の規制概念にはまっている所があります。

意外ですが、講師に、奇想天外な事を、
要求する子の方が、講師が好きで、ピアノを介した、
お付き合いは、長くなる事が多いです。

ピアノの下にもぐりこんだ幼児と、
1ケ月対話したピアノ講師も、
生徒さんとのお付き合いは、一生ものの、
長いお付き合いに、発展したそうです。

ある意味、嘘いつわりのない、自然体の
人と人の、心と心の、ぶつかり合いや交流が、
一生ものの、お付き合いになるのですね。

私は、幼児とかかわる時や、やりたい音楽を、
仕事とは、関係なくやる時は、
嘘をつくと、良くないと思っています。
(音楽を仕事でやる時は、嘘もつきます)

昔、初めての体験レッスンで、玄関の前で、
「嫌だ~~」と、泣いている幼児の声が、きこえました。

私は、「ピアノは習わないで、遊ばせてあげて下さい」
と、親御さんに言おうと思い、ドアを開けました。

不思議なのは、泣いていた幼児が、泣き止んで、
私の顔を、穴のあくほど見て、ニコッと笑いました。

私は、
「先生の家に、初めて来たのよね。
 先生のお家、探検しようか?」
 ときくと、嬉しそうに、ついてきました。

台所や居間や、いろいろな部屋を、一通り見せて、
幼児が好きそうなアニメや絵本を、居間で読んでいると、
「先生、ピアノはどこにあるの?」と、ききました。

自分から、ピアノの部屋にいって、私が、
「弾きなさい」と言わないのに、ピアノをポンポンと、
でたらめに、弾きました。
キーボードを、弾かせると、ボタン一つ押すと、
いろいろな音が出るので、でたらめに、好き放題に、
嬉しそうに、弾いていました。

親御さんは、
「この子、自分から、先生の所に、よっていったのは、
初めてです。自分から、やりたいと言ったのも、初めてです」
と、驚いていました。

その生徒さんは、高校生まで、ピアノを習っていました。

なぜ、あの時、「嫌だよう~」と、泣いていたのか?は、
未だに、解明できないナゾの部分が多いですが、
一つだけ、今回気がついたのは、その子は、
「習い事も塾も、どうせ、ありのままの自分(自然体の自分)
 を、受け入れてもらえないのだ」
 という、大人への不信感があったと思うのです。

不信感が解消されて、自分から、やりたい気持ちが、
出てきたのだと思うのです。

どうしても、ビジネス的な教育産業的な視点では、
「できない事を、できるようにする学びの対価として、
お金を払う」という視点になりますが、
子供さんは、「できる、できないで、自分を差別したくない。
学ぶ事で、ありのままの自分を、自分で応援できる、
自分の良い所を見つけられる、自分で、自分の応援団に
なれる学び」を、自然な本能の欲求で、求めているのだと、
思うのです。

しかし、偏差値に代表される、塾のような学びでは、
「できる・できないの狭い視点から、少し距離をとって、
ありのままの自分を応援する、応援団になる」
という視点が、欠けがちで、その点、アートは、
まだ、「自分を応援する応援団」
になる学びを、模索しやすいと思います。

特に、ピアノや、楽器を教える事よりも、絵を描く事は、
「絵が上手くなる事よりも、自由に、心のままに表現する事」を、
主にして、教えているので、「自分の応援団」を育てる学びに、
なっているのだと思います。

こういう学びで、大事な大人の視点は、
「この子は、なにができるか。できないか」よりも、
「この子は、なにが好きか。なにに興味があるのか。
どんな事に、主体的に、自分から、夢中になって、
はまれるのか」という、視点だと思います。

また、何かを学ぶ事で、自分の応援団を育てられない
マイナスは、スポーツも同じで、勝ち負けの結果ばかりに、
こだわると、メンタルが弱くなり、本番で、実力が、
発揮できないそうです。

昔、テレビで、甲子園野球を見ましたが、
点差が開いて、負けている高校の選手の方が、
のびのびと、明るく、野球をやっていました。

そのうち、負けているチームの、のびのびとした
明るさに、メンタル面で、負けたのか?
勝っているチームの方が、負けて追いつめられている
ような、暗い顔になり、6回ウラで、奇跡の大逆転で、
負けているチームが、勝ってしまいました。

これは、監督のメンタル面の指導の勝利だと思いました。

成功しなくても、失敗しても、望み通りに上手く
できなくても、その挑戦が、自分で、自分の応援団に
なっていれば、くじける事は、減ってくると思います。

短絡的に、
「できる・できない」「すぐ成功して、すぐに効果が出る」
に、こだわらず、長期の視点で、
「なにかを学ぶ事で、自分の人生の応援団を育てていく」
という視点は、大切な事だと思います。

こういう学びは、塾や習い事のような、
お金を介しての学びには、少なくなりがちで、
むしろ、お金を介さない、普段の生活のなかに、
多く発見できると思います。

また、私は、既存の枠をはずして、
アートする事を教えたい。
アートする本質を、さぐっていきたいと
思っています。

でも、前人未踏の難しい課題です。哀。

鑑みれば、創作バレエの音楽を作曲している知人は、
親御さんに、
「ピアノを弾けたり、楽譜を読めるという
 狭い事ばかりではなくて、音楽を教えて下さい」
  と、頼まれたそうです。
(ちなみに、その親御さんも音楽家だそうです)

音楽を教える事だけでも、大変な事で、
どうせ、一生かかっても、
分からないけど、考えていきたい。

しかし、「音楽という狭い枠に、はまらないで、もっと、
広い視点で、アートする事を、うちの子に教えて下さい」
という、ご父兄がいらしたら、大変な事ですよね。

私の想像では、そういう要望の親御さんは、
イラストレーターとか、小説家とか、ダンサーとか、
俳優さんとか、アート系の仕事をしている人が、
多いのですかね??

しかしなあ、音楽を教えるだけでも、ものすごく、
大変で、自信がないのに、アートを教えるとなると、
ますます、自信がないです。
(私の場合、力量がないので、自分の事は、棚に
あげて、理想論を書いています)

鑑みれば、お芝居の音楽を作曲した時も、
家に台本が送られてきて、お芝居や映画に、
関心がない私は、稽古している所は、一度も観ないで、
事務的に、音楽を作曲しました。

お芝居や、映画が好きだったら、自分から、率先して、
お稽古している所にも、参加して、どんどん音楽を、
その場で、創作していったと思います。
また、美術に関心があれば、お芝居に使われる、
美術作品にも、興味がわいたと思います。

鑑みれば、国文学科卒で、言葉にしか関心がないので、
小説や文から、音楽を作曲するのは、好きですが、
絵や写真や、ダンスやお芝居を見て、作曲した経験は、
写真を見て、作曲した1度だけしかないです。

私は、映画や、絵画や、お芝居や、ダンスのような、
アートのコラボに、関心があるタイプが、幼児を教える場面を、
想像しました。

幼児が、音楽を聴いて、絵を描いたら、自分も一緒になって、
絵を描いて、幼児の創造力を刺激する。

幼児が、即興演奏のピアノを聴いて、踊りだしたら、
自分もピアノを弾きながら、ステップを踏んで、
踊り出す。

幼児が、「##のアニメの映画見たよ」と
嬉しそうに言ったら、
「映画の中で、一番好きな音楽は、どんな曲?」
ときいて、ピアノを弾いて、歌ったり、踊ったりして、
他の場面でも、即興で、曲を作って、
幼児と一緒に、ミュージカルを創作したりする・・。

ワクワクするなあと思いました。(笑)
私は、ダンスも絵も、お芝居も、興味がないから、
できない事が多いですが・・。哀。

音楽家も、音楽を創るという、狭い枠ではなく、
映画や、お芝居の音楽監督や、
ダンス音楽や、創作バレエの音楽創作等、
アートのコラボの仕事を、しているのですよね。

昔、ジブリ映画が大好きで、映画のなかで、一番好きな
音楽を、私が、ピアノで弾いたら、興奮したのか、
鼻血を出した幼児の生徒さんが、いました。

私は、映画のなかの音楽を演奏して、興奮するタイプ
ではないので、その生徒さんは、幅広くアートしたい、
本能の欲求から、頭の中で、絵と言葉と音楽と、
キャラクターの動きetcの、全部のアートが、
一体になった悦楽の境地を、体験したのだと思います。

私には、未経験の悦楽を、生徒さんは体験したのですね。

私は、自分の能力の限界の狭い枠に、生徒さんを
押し込めないように、注意しないと、マズイと思いました。

追記
知人の娘さんの話では、
「子供の自殺者が減っている」そうです。
悲しい事ですが、
「学校が再開した時に、子供の自殺者が、増えるのでは?」
と、カウンセラーや精神科医や教育評論家が、心配しています。

私は、子供の自殺の原因になる苛めは、
自分の応援団になれない子供が、引き起こした
悲しい行動だと思います。

誰かをバカにして、自分より下に見下ろして、
苛める事で、自分に向かってくる、自分を差別する心を、
そらして、自分のなかにある、自分を差別する心を、
直視しないで、逃げている。

私は、苛めを続ける事は、
「自分のありのままを、自分で認めて、自分で自分の
応援団になる事から、逃げ続ける」
「自分で、自分の人生を幸せにする事から逃げている」
悲しい事だと思います。

知人の障害者の人は、
「障害があるから、不幸なのではない。
障害があるから、自分はダメな人間なのだと、
自分で、自分を差別する心が不幸なのだ」
と言っていました。

(私も、自分の能力の限界を、気にする所があるので、
 エラソウな事は、言えませんが・・)

今日のブログは、アートなどという、エラそうな視点でしたが、
ありのままの自分で、いられる遊びや、
趣味の時間で、心の元気を取り戻して、
自分で自分の心を、応援していく事は、
苛めで荒れている学校現場でも、自分の心を守っていくためには、
必要だと思います。

幼児のおままごとや、ごっこ遊びや、鬼ごっこも、
私は、「アートしている」ととらえるように、
視点が変わりました。

大人の視点で「遊んでいる」と、とらえると、
「子供の成長には、あまり必要がない、無駄な時間つぶし」
と思いがちで、でも、「アートしている」と、
とらえると、創造性や独創性や、心の元気を育てる、
大切な居場所だという視点が、生まれてくるのです。

「アートする」には、年齢も技術も知識も、お金も関係ない。
自然に遊び始める子供と同じで、誰でも、生活の中で、
「アートしたい本能」があると思います。

よけいな一言ですが、むしろ、アートする事が、
食べるためのビジネスになると、つらくなり、
心を病む事もあると思います。

あさげピアノハウス

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